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【優秀賞】
科学の『専門性』を打開する〜理論を解明・構築する根源的な面白さ〜
早稲田大学 創造理工学部 総合機械工学科 4年
滝澤 和弥
滝澤 和弥

1.はじめに
 子供の頃、時計を分解して遊んだ事がある。巻かれたゼンマイが、歯車を通して針を動かしていると理解した瞬間、大変な幸福感を覚えた。それと同時に、私は子供心にある予感を得た。身の回りの機械は全て、この時計と同様に、筋道の通った理論の上で動いているのではないか。そんな予感に囚われた私は、周囲の物を全て分解し、理論を解明したい衝動にかられた。
 本論文では、私が感じたこの予感こそが科学を学ぶ面白さそのものであるという論を展開し、高等科学技術の実生活への浸透によりその面白さを享受しにくくなっている現状と、それによる問題点について述べる。そしてその現状を解決するため、専門家と専門外の人間がお互いに歩み寄る事を提案する。

2.理論を解明・構築する根源的な面白さ
 前節で述べた「理論を解明したい」という衝動は、今でも私の大きな行動原理である。この「理論を解明する面白さ」は、私の専攻する機械工学だけではなく、物理学・化学といった他の科学分野にも関係している。この面白さが「機械の構造の解明」に繋がれば、機械工学の発展につながり、またその面白さが「分子構造の解明」に繋がれば、化学分野の発展へと繋がる。また別の見方をすれば、「背景を調査し、目的を設定し、仮設を立て、実証する」という研究の流れそのものは「理論を構築する面白さ」に基づいている。このように、理論を解明・構築する面白さは、あらゆる科学分野を邁進させる重要な燃料のひとつであると言える。
 ところで、科学という学問が全ての人間に好かれている訳ではない。一部の人々がむしろ科学を嫌悪していることを、我々は実生活から肌で感じることが出来る。では、科学を好まない彼らは、理論の解明・構築に対して面白さを感じないのだろうか。私はそうではないと考える。その根拠として、「理論を解明・構築する面白さ」は、科学以外、ひいては学問以外の事象に関しても見受けられるからだ。例えば、一般に広く親しまれているミステリー小説の面白さは、物語中の謎が明らかになる快感であるが、これはすなわち「理論を解明する面白さ」である。他にも、将棋やチェス、麻雀といった遊戯も、ゲーム展開の理論を構築する面白さと言えるし、野球やサッカーといったスポーツも、勝利のための理論構築が重要になる。以上より、「理論を解明・構築する面白さ」は決して科学の専門家のみが持っている感覚ではなく、人間が根源的に持っている感覚であると考えられる。

3.科学は何故「専門分野」なのか
 では、「理論を解明・構築する面白さ」が人類共通であると仮定すると、なぜ一部の人々が科学に対して無関心なのか。言い換えると、科学は何故「専門分野」なのか。その理由は、科学技術が高度に発達しすぎている点にあると考える。
 前述の通り、子供時代に時計を分解した私は、「周囲の物をすべて分解し、理論を理解したい」という衝動にかられた。しかしその野望は、かなり早い段階で頓挫した。というのは、当時一般家庭に浸透しはじめたパソコン、携帯電話、DVDプレイヤーといった代物は、子供の私には複雑すぎたからだ。そこで私は次第に理解する事を先送りにし、原理の分からない機械に囲まれて過ごした。工学部に進学した今でも、専門外では理解を先送りにしている現象が数多く存在する。近年の子供達には、教育の一環としてタブレット端末やインターネットなど更に高等な科学技術を用いる試みもなされており[1]、理解の先送りが更に強まっていくことが想像できる。
 このように、大人ですら理解の難しい高等科学技術に幼い頃から囲まれている状況は、人々の理解の先送りを助長し、ついには自分以外の専門家へ丸投げしてしまう状況に繋がる。この事が、科学は「専門家が扱う専門分野」となっていった一因であると考えられる。

4.科学が「専門分野」ではいられない現状
 ところで、この「科学の専門分野化」は、本当に解決すべき課題なのだろうか。当然だが、全ての人間が科学を専攻しなければならないという訳ではない。何に興味を持ち、何に時間を使うかは、個人の自由である。では科学は、科学に興味のある者のみが扱えば良いのだろうか。専門家だけが理解している専門分野であれば良いのだろうか。
 結論から言うと、現代社会においては、私はそうは思わない。高度な科学技術を実生活に応用し、広く人々の利益に繋げようという方針があり、それが実現しつつある現代社会では、私は科学が専門分野であってはならないと主張する。
 現代では、科学技術の発展に伴い、高度科学技術の実現化が進んでいる。da Vinciに代表される医療用ロボットや、福島第一原発事故で注目された瓦礫撤去ロボットのように、高等科学技術は確実に実生活と密接な関わりを始めている。高等科学技術が研究室内で完結せず、一般市民にとっての実利益をもたらし始めている。
 このような状況は、一般市民にとって科学は無視できない、避けられない話題となったとも言える。すなわち、国民の一人ひとりが「医療用ロボットは保険対象内にすべきか否か」「原子力発電所(以下、原発)を廃止すべきか否か」といった問題と向きあわなければならない時代なのだ。その際、問題の上辺だけを見て聞こえの良い意見を盲信するのではなく、医療用ロボット・原発といった具体的な科学の知識を自分なりにある程度身につけ考えることで、自身固有の意見を持つことが必要となる。以上より、私は科学が専門家のみが扱う分野であってはならないと考える。
 とは言え、これらの問題はそもそも、非常に高度な科学分野の話題である。私の専門である機械工学では、娯楽のためのロボットよりも、人命救助用ロボットの方が一般に技術の要求が高い。このように、実生活に即した科学技術は非常に高度であり、医療用ロボットや原発についての正確な理解は非常に難しい。

5.双方の歩み寄りによる、更なる科学の浸透
 前節までで述べた、「日常生活において高度な科学の知識が必要となった」という問題の解決策として、私は専門家と専門外の人間がお互いに歩み寄ることを提案する。私はこの問題に双方に責任があると感じおり、科学分野の専門家は、実用性を求める以上は専門外の人間に対する説明責任があるし、専門外の人間にも、その科学技術を理解し受け入れるか否かの判断を自ら行う責任がある。双方がその責任を果たせば、全体の知識向上により科学は更に一般に浸透していくし、技術は取捨選択され更に利益の更なる向上が期待できる。私がこのように希望的な観測を行う根拠は、前述の「理論構築・解明の面白さは、人間が根源的に持っている」という論である。現実問題として、原発の専門家が原発の一から説明することは難しいだろうが、私は全てを説明する必要はなく、原発の基本原理のみを説明すればいいと考えている。そうすれば、「理論を解明・構築する面白さ」に則り、各々が原発について調べるようになるのではないかと思う。それこそが、双方が責任を果たす形である。

6.おわりに
 技術の向上に伴い、上辺の知識だけで対処できる事案が増えたことは事実である。例えばボルツマン定数を知らなくてもインターネットで検索すれば値はすぐに得られるし、標準偏差が理解できなくてもExcelで関数を用いれば瞬時に算出できる。しかし高等科学技術が日常生活に浸透していくうちに、上辺の知識だけでは対処できない問題も生じた。一部の人にとっては、それは面倒だと感じるかもしれない。しかし私が思うに、理論の解明・構築は人類共通の快感である。原発に代表される様々な問題提起を、ポジティブな意味での契機だと捉えて欲しい。自ら科学を学び、そこで用いられている論理の筋道を発見した者は、年齢に関わらずいつでも新鮮な幸福感に出会えるだろう。それは、時計を初めて分解した子供が得る幸福感と、全く同一の物である。

【参考文献】

[1]菊池佑太,加藤直樹,山崎謙介,"野外学習のためのWeb-basedフィールドノートシステムの開発",情報処理学会研究報告 コンピュータと教育研究会報告,2006,pp.75-82,2006-12-09