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【最優秀賞 文部科学大臣賞】
「理系学問における“政治”の重要性」
東京大学 工学部 都市工学科 3年
菅原 慎悦

科学技術と政治、あるいは理系の学問と政治。
これらの言葉は、一見かかわりが薄いようにも見える。特に、世の中の真理や普遍的な法則を追究していく自然科学は、政治という言葉の裏に見え隠れする利害対立やイデオロギーとは相容れないものだというイメージがある。だが、理系の学問において、どんな立場からも中立な「真理」を求めるだけではいけないというのが、私の考えである。学問がその価値を発揮するのは、蓄積した知によってひとを動かすことで、世の中の役に立つという局面においてであると思うからだ。ひとと関わり、ひとを動かしていくこと、これはまさに政治と呼べるのではないだろうか。以下、学問がひとと関わること、その知を活かしてひとを動かしていくこと、この2点から論を展開する。

1.「もの」から「ひと」へ−都市計画の視点から
 現在、私は都市計画を学んでいる。先学期の学科の演習で、東京圏を対象にして科学的分析を行い、それに基づいた広域計画を班ごとに立案せよという課題が出た。私たちの班は、都心から放射状に伸びる鉄道・道路交通の過密に注目し、都心への一極集中がその原因となっていると考えた。そこで、居住地と勤務地の距離を短縮する「職住近接」をコンセプトとして、都心から郊外へと業務機能を移転させる計画を立案した。それに対する教授の講評は、計画の理想像としてはよいが、具体的な手法に欠けているというものだった。
 たしかに、何もない場所に都市をつくる権限が与えられたら、自分の考える理想的な都市をつくることは容易だろう。しかし、現実の都市では何百万という人々が生活を営んでおり、独裁者でもない限り、その人たちを強制的に移動させたり、企業を移転させたりすることは不可能である。実際、計画としては素晴らしいものでも、実効性が伴わずに実現されなかった先例は、日本において数多く存在している。例えば、関東大震災後、後藤新平による素晴らしい復興計画があったが、一部の幹線道路を除いて実現していない。また、第2次大戦で焦土と化した東京にも再び復興計画が立てられたが、予算不足、GHQによる指導、計画対象地域の地権者の反対等から、そのほとんどは日の目を見ていない。
 私たちの計画を含め、実現性の低い都市計画に共通しているのは、諸々の要素にばかり注目し、現実に暮らしている人々への視点が欠落している点であると私は考えた。たとえば、ある地区に公園を設けたいと考えたとき、現在そこに住んでいる人がどうしたら納得して移転してもらえるかを考えなければならない。すなわち、都市を構成する「もの」だけではなく、そこで生を営む「ひと」を対象としなければ、都市計画は成立しないのだ。
 これは都市計画に限らず、理系学問分野に広く当てはまることではないだろうか。例えば、医学のインフォームド・コンセントや、先端生命科学における生命倫理の問題は、人間同士の関わりのなかで生じるモラルの問題である。また、村田純一は、「実験行為自身が自然と社会の連関の中にある反復の利かない歴史的行為となる」(注1)事例として、抗生物質の投与が耐性を持った細菌を生み出す例を挙げているが、これは、自然科学が特定の対象を抽出して操作することが、実際には人間社会に深く関わっている典型例でもあろう。
 いわゆる文系の学問の対象は、「対象の数量的な扱いにあるよりは、むしろ本質的に数量的な扱いに抵抗するようなものの記述にある・・・(中略)・・・すなわち、『もの』ではなくて、『ひと』」(注2)であるといわれる。現在、「文理融合」がさまざまなところで語られているが、私がこれを実感するのは、理系分野における「もの」から「ひと」へという対象の変化のコンテクストにおいてであり、その流れは加速していくべきだと考えている。

2.理系の知を活かしてひとを動かす−京都議定書を例として
 科学技術を用いた人間の活動が社会に大きな影響を及ぼしている例として、環境問題がある。この点で、環境に関する学問はまさにひとを対象としていると言えるが、それに関連して京都議定書の問題をとりあげたい。
 1997年に採択された京都議定書は、アメリカの不参加や排出権取引等の問題がよく議論の俎上にのぼるが、日本にのみ厳しい目標が課せられたという議論はあまり出てこない。それは、2002年の国会における批准決議が衆参両院とも全会一致で採択されたことにも象徴される。2010年CO2排出量を1990年比で日本6%、EU8%、アメリカ7%、ロシア0%それぞれ削減させるという目標であるが、2000年の排出量から見ると、目標との乖離率は日本16%、EU6%、アメリカ20%であり、ロシアに至ってはすでに34%の超過達成となっている(注3)。アメリカが批准しないことを決めたため、結果として日本だけが厳しい目標を達成しなければならないことになったのである。
 地球的観点から考えれば、すでに省エネ技術が発達している日本でさらに排出量を削減していくよりも、他国で減らしたほうがコストの面でも安いし、効率的な対策が期待できる。日本は、そのための先進的技術を他国に供与する方が、より現実的な環境問題対策となるだろう。しかし、多くの理系研究者から京都議定書の有効性等に対して疑問が投げかけられたにも関わらず、結局は国会で全会一致による批准という形になった。
 日本人は外国人と比べて主張することが苦手であるといわれるが、日本が国際社会を生き抜いていくためには、さまざまな利害関係にとらわれた八方美人的な外交ではなく、自国の主張を堂々と展開していくべきだと私は考える。そのためには、主張の根拠が確立していなければならず、理系の知が活かされる現場はまさにここである。科学的な分析による客観性や普遍性を重視する理系の学問は、数字を共通言語とした普遍的なものであるからこそ、視野の狭い国益から離れて確固たる理論を展開できるからだ。日本は文系優位社会といわれるが、理系の知をもっと活かすことによって、外交のような面においても日本がよい方向へと進んでいく原動力を得ることができるだろう。
 これは狭義の「政治」的な問題であったが、ひとを動かすという幅広い意味において、研究者個人の単位にもあてはまる。理系研究者は豊富な知の基盤を持っているのだから、それを背景として自己の考えを主張し、ひとを動かして社会を良い方向へと変えていくようにさらに努力すべきだろう。数字という共通の手段がある分、文系の研究者よりもむしろ容易に主張を展開できると思う。自分の主張によって社会が良いものになることこそ、自らの研究が社会の役に立ったという理系研究者の醍醐味を味わえるのではないだろうか。
 以上の2点から、理系学問における政治的要素、すなわち、ひとと関わりひとを動かすことの重要性について述べてきた。政治とはひとを動かす力だと私は考えているが、その力の源こそ、反証可能性を持ち、普遍性へと開かれている科学的な分析を経て蓄積された理系の知ではないだろうか。理系学問における数字はあくまでもコミュニケーションの基礎としての共通言語であり、数字の操作にとどまるのではなく、それを用いていかにひとを動かしていくかが、日本の理系学問の、また科学技術の課題だと私は考えている。

注1.村田純一「ポスト・ベーコンの論理とは」(小林康夫/船曳建夫編『知の論理』東京大学出版会、1995所収)p.249より引用
2.小林康夫「学問の行為論」(小林康夫/船曳建夫編『知の技法』東京大学出版会、1994所収)p.6より引用
3.京都議定書に関するデータは、東京電力株式会社・工藤敏和氏の講演資料「地球温暖化対策をめぐる課題と電気事業のとりくみ」(2005年11月2日 於:東京大学本郷キャンパス)を参考にした。