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2004年(第6回)

【優秀賞】
「知識詰め込み教育を肯定する」
東京理科大学 理学部 化学科 4年
古野 智美

 最近、小学生の4割が太陽が地球の周りを回っているといういわゆる「天動説」を信じているとの新聞報道を見た。 その報道では、これを小学生の科学知識レベルの低下を示すものという取り上げ方をしていた。確かに現在「地動説」が常識とされており、 試験などで「太陽が地球の周りを回っている」と解答したら誤りとする他ないだろう。しかし、これらの小学生たちの存在を、単に最近の子供たちは科学的知識が欠如しているといって片付けることはできない。

何ら先入観無く空を眺めたら太陽や星々が地球の周りを回っていると感じるほうがよほど自然である。地球の方が動いているというのは、教えられた知識であり、自然に受容される感覚ではない。

 とはいえ人間の自然な感覚にはそぐわない地動説のほうが、天体の運行を説明するのにより的確な理論とされ、現代では常識となっている。 惑星の動きは天動説では文字通り「惑っていた」ものが、地球を含めすべての惑星が太陽の周りを周回していると考えることで、単純な円運動として理解できるようになった。 ここに至るまでいコペルニクスやガリレイらによる、当時の常識とは真っ向から反する理論確立への不断の傾注があったことはよく知られている。

 科学とは目に見え、自然に感じることのできる感覚のみに飽きたらず、この世界の有り様をより正しく理解しそれを的確に説明しようとした数多くの先人たちの、 時には命をもかけた努力の結晶である。天才と呼ばれる人たちはそれまでの常識を根底から覆してきた。それこそが科学の発展そのものといえる。 それゆえ科学によるこの世界の説明は、多くの場合我々の直感的な感覚だけでは理解しがたい。科学を理解するのは難しいが、それは当然のことなのである。

 しかし科学の理解が難しいからといって、それを放棄してしまってよいだろうか。私はこの質問に対してははっきりとノーと答えたい。現代人にとって科学を理解しようと努めることはどうしても必要なことなのである。
いうまでもなく現代人は科学から大きな恩恵を受けている。と同時に科学は現代文明を一夜にして壊滅させるほどの力を持っている。 もはや我々人類の生活は各人の好むと好まざるとに関わらず科学なしにはあり得ないのである。このような有力な科学という存在に対して、それとともに生きる人間が無理解ではいられない。

 科学に対する無理解が及ぼした悪しき例として、最近のBSE駆動が挙げられる。BSE禍により日本中から牛肉が駆遂される騒ぎとなったが、 それは牛肉が危険だからという理由よりむしろ必要以上に消費者が恐怖し、敬遠したからといえる。BSEに感染した牛肉を摂取することと、 クロイツフェルト・ヤコブ病への感染との因果関係ははっきりしていない。むしろ可能性があるというレベルの話で、実際BSE感染牛肉を摂取し、 ヤコブ病に感染したという例はほとんど見つかっていないという。むろんBSEに感染した牛肉を食べるのが気分的に嫌だという消費者の感情は正当であり、尊重すべきである。 それにしても先日の駆動は多くの人々の科学に対する理解不足と、それを助長するマスコミ報道がもたらしたものといえるだろう。 あれだけ連日連夜、BSEを発症し足腰が立たなくなってへたり込む牛の映像を見せられたら、牛肉を食べることへの恐怖心をもつのもしかたないことだろう。 同様の例は数年前のダイオキシン駆動、原子力発電に対する一部の人間のヒステリックなまでの拒絶、最近の科学的根拠に乏しいマイナスイオン礼賛など枚挙にいとまがない。これらの大半は人々の科学に対する理解不足に起因するといえる。
テレビなどの科学番組は、視聴者の科学に対する関心を高めるという意味ではとても有用である。特に最近ではさまざまなメディアで科学が取り上げられ、 科学に関する情報に一般の人が接しやすい状況になっている。このこと自体は大変よい傾向であると思う。しかしこれらの情報は一般の人々でも関心を持てるように著しく加工され単純化された情報である。 本来難しいものを単純化し簡単に説明しても、それによって得られる知識は多くの場合表面的で特に危険なものでさえある。これでは科学の真の理解は得られない。

 それではここでいう科学の真の理解とはどのようにしたら得られるのだろうか。私はそれを豊富な真の知識を持つことでしか得られないと考える。 ここでいう真の知識とはテレビなどで得られるような、とっつきやすいように加工されたものではなく、学校で学ぶようなある意味退屈な基礎知識の積み重ねのことである。 近年は知識より考える力を養うことが大切だという風潮である。考える力。すなわち新しいものを生み出していく力が重要がであることは私にも異存はない。しかし真の知識抜きの考える力というものがあり得るだろうか。

 「失敗から大発見」という話は科学の世界でよく聞く話である。近年のノーベル賞受賞者の白川英樹氏も田中耕一氏もその成功のきっかけは実験の失敗だったと講演などで話している。 しかし彼らがここでいう失敗とは、ただ闇雲に1回やってみてそれでうまくいかなかったというような意味での失敗ではない。 彼らは従来の意味での成功を何回も繰り返してきて、その中で従来の成功とは異なる現象、すなわち「失敗」を発見し、その異変に価値を認め大きな成果に繋げたのである。 同じ失敗でもまだ知識のあまりない学生によってなされたものもなら、単なる失敗として片づけられてしまったかもしれない。「失敗は成功のもと」であるが、 成功するためにはそれが失敗であることを理解するだけの知識と経験が必要である。トーマス・エジソンの「1万回失敗したのではない。1万通りのうまくいかない方法を発見したのだ」という言葉は、これをもっともよく表す言葉だと思う。

 先に述べた、天動説を否定し地動説を確立したコペルニクスやガリレイらも、おそらく当時の他のいかなる人よりも、彼らの否定すべき天動説について深い知識をもっていたのだろう。新たな理論は旧来の理論への深い洞察なしに生まれ得ない。

 科学に対する知識をもつことは重要である。理科や数学をはじめすべての初等教育において知識詰め込み教育に対する批判がなされ、ゆとり教育という名の知識削減がまかり通ってきた。 しかし、今日の科学的に成功している日本を創ったのはその知識詰め込み教育を受けてきた世代なのだ。 彼らはたとえ詰め込みであるにせよ多くの知識を身につけ、そこから新たな価値を生み出し、この豊かな日本を創ってきたのである。我々の世代も先代に恥じないような価値を生み出していかねばならない。

 科学は日々発展し、人類のもつ科学的知識は増え続けている。我々が学ぶべき知識も当然増え続けている。豊富な知識から疑問が生まれる。 その疑問から洞察が生まれ、また新たな知識を生み出す。知識は科学の根幹であり、必要不可欠なものである。私は知識詰め込み教育を積極的に肯定したい。