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2003年(第5回)

【努力賞】
「ゆとり教育と日本の将来」
東京工業高等専門学校 電子科 3年
貞国 健司

 最近、妹(私よりも9歳年下)の学校の教科書を見ていたら、私の時代の時よりも、薄くなっている感じがしたので、中身を見てみると、学ぶ内容が減っていたのだ。特に算数(数学)と理科が多く減らされていたことには正直驚いてしまった。俗に言う「ゆとり教育」の影響を受けていることは分かっていたが、算数にて、3桁×3桁ほどの計算でも電卓を使わせるのは、幾ら何でも減らしすぎである。こんなので基礎計算力が養えるのか、そんな印象さえ受けてしまったくらいだ。

 文部科学省が2002年から実施した、「新学習指導要領の実施」。"過去の詰めこみ学習を反省し、ゆとりある教育を行うことで、より個性的で応用力豊かな子を育てるため。"といって行った政策であるが、これがもたらしているものは計算能力の低下と、塾教育へのさらなる依存と、数学・理科離れした子どもの増加という、将来の日本の不安材料になりかねないものばかりである。特に、数学・理科離れが加速化してしまうことは、今後の日本の科学技術に重大な影響をもたらしてしまうことは明白であろう。日能研によれば、算数では、分数の計算(仮分数や帯分数を使ったものを指す)や数の大小の計算、果ては空間図形やグラフの役割についてまで削除し、小数の計算では、小数第1位までと言う規則になってしまった。理科においては、実験・観察の削除が多いと言う。これは大変なことである。

 この改正で、円周率も3.14から3.1になったうえ、3桁以上の数の計算は、教科書から姿を消すなどといった基本的な削除も、挙げたらきりがない。全体的に、現在の科目の約25%から42%削減されるのだ。これでは子供達は、ほんの少しでも桁の大きくなった数の四則演算もできなくなってしまい、日常生活にも影響してしまう。そのうえ、分数の計算まで満足にできない。そんな状態のまま小学校を卒業してしまうのである。必ず挫折してしまうだろう。数学は典型的な"積み重ね教育"によって身につける教科であることからもそれが分かる。基礎ができないと先の知識が理解できないので、じきに分からなくなる。そして、数学がだんだんつまらなくなっていくのだ。理科にしても、実験・観察の項目や時間が減らされて、授業はつまらないものとなってしまっただろう。こうして子供達の数学・理科離れは進んでいくのだ。また、それを恐れてその親御さんは、学力低下を防ぐためにも、塾に子どもを入れるようになっていくだろう。だが塾と言う所は、私も通ったことがあるので分かるが、こちらの方が詰めこみ教育というにふさわしいものである。それに、競争意識の育成と暗記の教育が広がることにより、ゆとり教育の目指していた、「個性ある児童の育成」という目的から大きく外れる結果になる可能性が、大きくなってしまった。

 又、私立の学校には今回の改正は強制されないと言う。これにより、塾や私立学校に通わせないと学力が低下するような状態になってしまい、それによって、子どもの両親が負う経済的負担が今の何倍にも増大してしまうだろう。子どもたちの将来の道を狭めてしまうという事態にもなりかねない。しかも、今回の削減は高校以上の学校にも影響を与えている。私は、東京工業大学の附属高校から、東京高専に編入学した身であるが、どちらの学校の先生も、「時間が足りない。」と言っていた。小中学校の科目の後回しや週休2日制の徹底化のせいで、ただでさえ少ない時間がますます減ってしまったのである。

 そもそも応用力や個性は、基礎がなければ意味がないと私は思っている。過去の色々な科学の発見は、基礎の研究の積み重ねの過程で生まれてきたのである。その中にはふとしたことから発見されたものも多いが、その出来事を科学的に結びつけたり、証明したりするには、基礎的な知識や研究が不可欠だったに違いない。また、日常生活など様々な分野で、数学や科学の知識は不可欠なものになっており、これも応用的な内容になっているように見えて、実はほとんど基礎的な計算や知識で片付いたりするのだ。(これは私の経験からであるが)。今回の改正ではこのような、科学や生活で不可欠な計算や、日常で知っておく必要のある科学知識を、訓練したり、興味を持ったりする機会を奪っているとしか、私は思っていない。

 とはいえ、教育改革は今回が初めてではない。1970年代、先進国ではいわゆる「おちこぼれ」が発生してしまい、一時期、問題になってしまった。日本も例外ではなく、旧文部省はその対策として、教育内容を先送りする改革をおこなったのである。つまり、教育改革は既に始まっていたのである。だが、これによって落ちこぼれは減っていないという。それどころか、理系の大学生が中学数学の補習を受けているのが、最近問題になっている。これが物語っていることは、理系の大学に入る人々のなかに、数学をまともに学習せず、ただ、受験の出題傾向やパターンだけを暗記したりして、合格してしまう人の割合が増えてしまっていることである。その学力低下の原因のひとつが、その教育改革にあるといわざるをえない。

 また、「落ちこぼれ」の発生は先進国全般における問題であった。かつて、アメリカでも1950年代から1970年代にかけてゆとり教育が行われていたが、これが深刻な学力低下と、教育格差の増大による、「落ちこぼれ」の大量発生を引き起こしてしまった。レーガン大統領はこれを国家的な危機であるとし、教育方針を競争的なものにかえたのである。これにより、1990年代にはアメリカは再発展を果たしたのである。学力を下げ続ける日本の今の流れを考えると、アメリカの"教育の失敗"をくりかえしてしまうだろう。このような先例に恵まれているのだから、その二の舞を踏むべきではない。

 では、どうすればよいかである。アメリカはさきに教師の育成からはじめたが、日本でもそうすれば良いのである。慶應義塾大学の榊原英資さんは、金八先生ではなくプロフェッショナルな教師を育成したり、幅広い経験を持つ人々が簡単に教師になるよう、今の教員免許制度を緩和して、今の教師の負担を軽減すべきだとおっしゃった。(2000年7月23日の朝日新聞朝刊にて。)その意見は最もであると思う。こうすることで、教師を知識を習得させるプロにするわけである。最近、世間は「担任の教師が生徒のすべてに責任がある」という考えであろうが、こんな事では教師は本来の仕事に専念できないはずである。教師はあくまで知識を生徒に教えるのが本業である。

 また、教科書についても、計算問題をもっと増やし、実験・観察の紹介を中心にするように作り、理系の知力を鍛えるようにするものに変える。そのためには、教科書の規制を緩和する必要がある。そのためにも、少数の文系の官僚が管轄する教育委員会を改革すべきである。私は、今回の理系の教育"改悪"は、言葉が過激になるようだが、教育委員会に文系の人間が強い影響力を持っているからだと思っている。理系の、外部からの人間をより多く加えるべきである。これにより、閉鎖的になりやすい教育委員会や文部科学省の"風通し"を良くすると同時に、科学や数学の教育を充実させるのだ。

 科学がさらに発展するこの時代、日本も発展するだろう。それをアメリカのかつての失敗の二の舞を踏むと言うことで、水を差すことになって欲しくない。私は日本が好きである。だから、日本にはもっと発展してもらいたいのだ。だからこそ、将来のこの国の力になる子どもたちが科学や数学を勉強するきっかけになる、小中学校教育の今回の改革をとりやめてほしいのだ。この改革が後世、「悪政」といわれるような事態になる前に。