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2002年(第4回)

【努力賞 日刊工業新聞社賞】
グローバル化する日本の教育
工学院大学 機械システム工学科
素野 裕康

 グローバル化の進展で、我が国を取り巻く社会、経済の環境が大きく変化する中で、我が国の今後の進むべき方向が曖昧になり、社会全体に閉塞感や目標の喪失観が漂っていると言われています。このような時代を迎える中で、教育を振興し、時代を担う子供たちの能力を最大限に伸ばすことが、豊かで活力ある国家を作るための最重要課題となってきている。伝統的な工業化社会から知識社会への変化の中で、教育が重要である。教育の問題は、21世紀の国際的な課題となってきています。知識社会に向けて基礎的・基本的な内容の確実な定着を図り、その上に立って、創造性など、新しいフロンティアを切り拓いてゆくために必要な力を育む教育の実現が求められています。

 近年、日本ではアメリカの教育制度が脚光を浴びている。アメリカの教育制度は自主性を重んじるために自分自身で考える力を育てリーダーを排出するというのだ。反対に日本の教育制度は集団のことばかりを気にして出る杭は打つという考えで行っているために個人の優れた長所が育たないという評価が一般的である。そのため、日本でもゆとりの教育という概念が生まれ2002年からの教育制度は難しい内容を教えるのを控え、生徒と共に向き合う時間を増やすという方針に変えている。日本政府は量より質を取り、少ない情報を教えながら考えさせる制度のほうが好ましいと考えたからである。

 しかし、アメリカの教育制度は日本で考えられているような素晴らしいものなのだろうか?確かにリーダーとしての器という面を考えると彼らには備わっているかもしれない。しかしそれは、子供の頃から討論の練習が授業に組み込まれているためである。
 事実、アメリカ合衆国の国民の数学レベルは世界最低、もしくはそのレベルにある。それは彼らが小さい頃から電卓だのみの数学をしてきたことと、出来なくても授業をパスできる状態にあったからに他ならない。今や、コンピューター時代である。そのため暗算や計算の必要性はなくなってきているのかもしれないが、最低限の数学だけはやはりできなくてはいけないのではないだろうか?日本でもゆとりの教育が導入されている。円周計算が3.14でおこなわれていたのは昔の話、これからは3として教えられるらしい。また4桁以上オの計算には電卓の使用が認められた。アメリカの教育制度を見習っている日本の未来は、今のアメリカ人のような数学苦手な人達で溢れかえってしまうのかもしれない。

 そもそも、日本の1970年代の高度成長はなにに支えられていたかというと、日本人のその学力の高さであると思います。その数学レベルは世界でもトップクラスであり、その学力が下支えになって成長を促していた。しかし近年に日本人の平均学力は年々低下しており、世界平均よりもいまだに高いのも事実だが、ゆとりの教育によってそれを割り込んでしまうことも考えられる。かの有名なマイクロソフト社の社員の半数はインド人だという。彼らの数学レベルは世界第一位であり、ついで中国人、台湾人、シンガポール人と続く。そのどの国でも今IT革命が進んでいる。数学をおろそかにしていてはいけないのではないかと思う。
 アメリカの文化ばかりを取り入れ、アメリカがリーダーを養成することに成功したとはいえ、それをすべて右に習えするのはいけない。ゆとりの教育は確かに大切だが、もっと教える内容を減らさなくてもできることがあるのではないだろうか?いまやこのゆとりの教育に反対する日本人の声も多い。ゆとりの教育を導入したからといって、教える内容が減るだけで教師、学校体制がほとんど変わらないのなら、アメリカの学力の低さだけを見習ってリーダーシップも根本的に身に付かないような成人が増えてしまうのではないだろうか。
 実際、アメリカでおこなわれたオルタナティブ教育(=アメリカ版ゆとり教育)はすべて失敗しています。アメリカでは、1960年代頃からデューイらによる進歩主義教育の理念が急速に浸透し、学力の低下、学校規律の乱れを招いた。そうした教育の荒廃を建て直すべく、父母たちが1975年以降、「アカウンタビリティ」「back to basics(基本に返れ)」をスローガンに掲げ、運動を起こした。そうした運動に後押しされて、ブッシュ政権も、クリントン政権も、規律正しさや勤勉さを尊ぶ教育を取り戻す政策を継続し、アメリカは教育力を回復したのである。連邦教育省は1990年に「国家教育目標」という極めて具体的な教育目標を示し、1991年には「アメリカ2000教育戦略」を発表、1997年にはクリントン大統領が「President Clintonユs Call」を行い、ゼロトレランス(寛容さ無しの教育)方式による学校の秩序と規律の回復、そして学力の向上を呼びかける、という実に見事で的確な対処がなされてきた。

 一方、日本では、アメリカの失敗の教訓に学ぶことなく、アメリカがかつて失敗し教育荒廃の原因となった教育を、こともあろうに今現在も懸命に導入しようとしているのである。実は日本国内でも既に1993年から「ゆとり教育」本番を前に広島県で教育改革が行われています。結果はというと高校生の学力は全国最低レベル、変わりに少年非行率は全国1位になったそうである。大失敗であるとしか言いようがないが、ゆとり教育を見直すには良い機会だったのではないだろうか?なぜ、アメリカでも広島でも失敗した教育政策を日本が今、熱心に導入しようとしているのか、どうしても理解できない。巨額の借金にあえぐ日本という国家の危機的な姿を見れば見るほど、その思いは強くなる。
 日本では何かあるとすぐアメリカではどうだという議論が出て来る。日本とアメリカの社会は天と地ほども違うのに、何かというとアメリカに範をとろうとする。アメリカのようにエリート達を英才教育することで国力を維持するより、知性と教養の裾野の広さが国力の元だと考えていたのでゆとり教育は不安である。天才のいる国と突出した才能はないが平均的に能力が高い国のどちらが強いかは私には分からないが、アメリカのように、国力はあっても、国民の多くが貧困、又は借金に苦しんでいて、社会問題に悩まされているのはどうかと思う。国力の為より、国民の利益を重点に教育を考えたほうがよいのではと思います。

 市場経済の理屈に基づくアメリカの教育は、公教育を衰退させ、知識を一部の人間の独占物にしつつある。この過程は同時に自己の欲求の達成にしか関心がなく、周囲の世界と自分とを結び付けない若者の生産を加速する。この自己中心性こそが、アメリカの創造性の正体であると思う。これは細分化の進んだ現代社会での金儲けには役立つが、今日の課題に必要な総合的な視点を持った人材を育てない。実際、他人や社会の状況、あるいは地球環境や国連などに対するアメリカ人の無関心さは目に余る。多角的な視野を持っている優れた創造力の持ち主を育てるためには、堅固な基礎学力が欠かせない。日本の教育改革は、公教育による機会均等を根底に、きちんとした基礎知識を誰もが得られ、その上で各人の得意分野を磨けるシステムを目指すべきだ。安易なアメリカの物真似は、日本の教育、将来を崩壊へと向かわせる。

 わざわざ自分に合わない方式を取り入れようとするのは、その時点で相手の計画に負けることであると思う。そのようなことをしていてはいくら優れた技術、能力、発想を持っていても、日本に明るい将来はないと思う。アメリカのように1%の富裕層が、国全体の42%の富を握り、国民の半分がいつ首にされるか分からない社会を我々は望んではいないはずだ。それによって、国民の間での同胞感、信頼感を無くすような社会では、生活の幸福感すらも得られない。
 国際社会、アメリカの評価などに一喜一憂せずに、愚直に自分自身で良い点は守り、悪い点は改めていけば良いのであって、アメリカンスタンダードをそのまま受け入れる必要などない。ビル・ゲイツのような人材を作ろうという前に、他を配慮し、周囲と自己との関係を視野に入れ、社会の向上のために自分の力を捧げたいという若者を、支える教育改革を目指すべきだと思う。